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ノースカロライナ 日本センター スプリングヒルハウス

ノースカロライナ州立大学オフィイスオブインターナショナルアフェーアに属するノースカロライナ日本センターは、NCSUセンティニアルキャンパスの一環をなすスプリングヒルハウス(Spring Hill House)という建物のなかにそのオフィスがあります。この建物は歴史的建造物として登録されており、おおよそ1815年ごろプレンテーションの母屋として建てられたジョージ王朝様式の建物です。ローリー市のダウンタウンから南西に広がる丘の上に立つこの建物は、この丘のふもとに泉が湧いていたことから、「スプリングヒルハウス」と名付けられました。

最初の邸宅っは、ウェイクカウンティ及びローリー市の初期のリーダーであったセオフィルス・ハンター大佐が1700年代に建てた、もっと小さい家でした。ハンター大佐はNC州下院議員、植民地民兵の将校、判事、公有地監督官、課税額査定官、市警察部長などを歴任しました。1798年に亡くなり、家の裏手に埋葬されていますが、これはウェイクカウンティで最も古い、墓碑うぃ備えたお墓です。

ハンター大佐が亡くなったとき、2500エーカー(約10k㎡)のプランテーションのほとんどは息子のセオフィルス・ハンター氏に渡りました。彼は1840年に亡くなるまでにその所有地を5000エーカーに増やしたほか、石材、ブロック、モルタルの基盤の上に木枠構造をもつ現在のスプリングヒルハウス1815年に建てました。木材はプランテーションの奴隷がハンター氏の製材所で裁断したもので、地下室で見ることのできる床梁は手作業で仕上げた手斧の跡があります。一階部分を後ろに拡張して新しい家を父のハンター大佐が建てたものとつなげました。当初の邸宅は20世紀に焼失し、現在は1815年の建物だけが残っています。

1864年、ハンター家は160エーカーを保安官ウィリアム・ヘンダーソン・ハイ氏に売却しました。南北戦争末期の1865年4月にローリーを占領した数千の連邦軍兵士が周りでキャンプを張り、スプリングヒルハウスは将校らの宿舎や、軍のオフィスとして使われたと見られています。ハイ保安官の家族はこの家に1872年まで住んでいましたが、農場と共にウィリアムズ・グライムス氏に売却しました。そしてこの家はサマーハウスとして使われていましたが、その後、未亡人となったグライムス婦人は1908年に家と土地を州立病院に売却し、スプリングヒルハウスはドロセアディックスホスピタルのものとなりました。2001年1月に128エーカーがNCSUのセンティニアルキャンパスに譲渡され、同年6月にNC日本センターが入居しました。

スプリングヒルハウスは2世紀にわたって存続するなかで様々な変化をしいられてきました。たとえば、原形のドリック式支柱のついた2階建てポーチの2階部分を失ったり、南側の壁では、2つの煙突と大きな居間へ通じる入口をなくしています。しかしながら、2000~2001年の大規模な構造点検を含め、大幅な修復もなされています。家は、日本センターの就業時間中ご自由にご覧になれます。この家がドロセアディックスホスピタルによって使われた間に準備された家の歴史と特徴に関する詳細(この資料のほとんどはそれから取られています)はご要望により英語でご覧になれます。ノースカロライナの歴史に密着したこの美しい建物のなかでその任務を遂行できることはNC日本センターにとって光栄なことであります。